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N/A ―名前のない少女―

ある朝少女が目覚めると、彼女の存在を証明するものはどこにもなかった。

掛けているはずのベッドはたしかに彼女の私物で、この部屋もそうであるはずなのに。
名前がない。散らかした机のノートも、床に放り投げていた携帯端末もなにもかも自分自身の名前が見当たらないと気づいた彼女は、少しだけ焦りながら誰もいない家を出た。



彼女が街に出てほっとしたのは、いつもとまったく変わらない景色だったことだ。そして目的地である学校も同じだった。だが、誰に声をかけても返事はない。すれ違う教師も見知りのクラスメイトもまるで少女をいないかのようにすれ違っていく。きっと気づかなかったのだろうと己に言い聞かせながら教室に入っていった。ホームルーム、点呼。一人だけ呼ばれない。少女は手をあげて指摘する。しかし無視を通す教師に、少女はもしやこれは教室ぐるみのいじめではないかと噴気し、わざわざ立ち上がって名乗り出ようとして気づいた。


自分の名前を思い出せないのだ。


少女は困惑してその場に立ちすくんだまま、朝礼は終わった。
バラバラと行動しだす周囲の子達に訊ねようとしてもなしのつぶて。どうにか気を引こうと服や手を引っ張ったりあげくに転んだりさせてみてもまるで相手は無意識に思うようで、周りは少しだけ不思議に思うばかり。
教壇に置かれた名簿には自分の名前があったはずの欄にはっきりと斜線が引かれていた。
怖くなった少女は教室を飛び出して職員室へ向かう。


まるで透明人間になったようだ。チャイムがなっても廊下を走っている少女をすれ違う教師は気づかない。ドアを開けたその先でも同じように。
動じない教師たちを尻目に適当な資料を漁ってみてもやはり自分の名前も、在籍情報も何もない。昨日やったはずの抜き打ち小テストには覚えがあっても、名前が空欄の紙切れしか見つからない。これは確かに自分の字なのに、と少女は思ったが証拠がない。自分という存在の証明が。


気を取り直して担任の机の上にあるノートパソコンを堂々と開いた。幸いパスワードはかかっていない。なんでもいいからとファイル検索をかけてみて、しばらくの待機画面の後、表示された文字は「N/A(該当なし)」。


落胆の後、やけくそになってそこらへんのものや机に積まれた書類を乱暴にひっくり返していく少女。それでもやはり教師たちは突風かな、などと言って窓や扉を確認する程度。もしかしたらドッキリなのかもしれない、いや夢の中なのかもと少女は現実逃避をしだし、なお存在証明の手がかりを求めて再び街へ歩き出す。


道行く人々に声をかけてみたり、わざといたずらをしたりするもまた少女の仕業と認識するものはいなかった。犬も猫もぶつかっても反応はまるで狐につままれたよう。
小石を蹴って歩きながら、ふと少女は自分はもうすでに死んでいて、気づかないまま幽霊になってしまったのではないかと考えはじめた。だったら、死ぬようなことをしても平気なはずだ。


恐怖心と不安を抑えながら、少女は道路の上に立った。
遠目に普通車両が迫ってきているのが見える。もしすでに死んでいるなら、このまま通りすぎるか、多少痛くても問題ないはずだ、それ以上のことはないだろう。


だが、もし自分はまだ生きていて、このまま轢かれて死んでしまったとしたら?


―少女の身は死さえなかったことになり、存在を証明できないまま、永久に葬り去られるかも―
急に恐ろしくなって少女はとっさに身を引いた。目の前を車の残像が走り、転んで擦傷した手のひらの下にはコンクリートに血が滲んでいる。少女は少しほっとした。自分が生きている証拠だけはまだあったのだ。


しばらく呆けてから、冷静になった少女はきっと家に帰れば何か見つかるだろうと家路を向かった。
しかし家の前に着くと、我が家であったはずの表札には見知らぬ名字が据わり、窓からは知らないはずの家族の横顔と彼らの談笑が漏れている。


少女は絶句した。
とうとう家族の存在まで証明できなくなったのだ。
帰る家を失った少女は失意のまま、誰もいない住宅街を歩き出した。



「誰か、私を知っている人はいませんか」
涙目の少女は震える声で呟いた。
もうすぐ陽が暮れる。少女は明日も存在の証明を探し続ける。


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